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「零號琴」

 2019-05-25
以前から読もう読もうと思っていた、飛浩隆の『零號琴』を読了。
昨年秋に発売になって以来、あちこちで話題になっているのを目にしていた作品であり、また、飛浩隆作品には常々興味を覚えていた(かなり以前に1つだけ読んだことがあります)こともあって、どこかで読まなければなるまいと感じていた1冊です。

……確かに凄いですね、これ。
人物名やガジェット名等の独特の命名センスが作品にちょっと浮世離れしたような酩酊感を生んでいますし、ストーリーそのものも相当に面白かったです。
読んでいて頭がクラクラくるような、めくるめくイメージの奔流に満ち満ちている本作は、ひとたび、それに呑まれ流されるままにページをめくりだすと、離れられなくなる、読み進めることを止められなくなる、そんな麻薬的な力も有していました。
それは全て、飛浩隆という一個人の脳から生じたイマジネーションの為したことになるわけですが、何をどうすればこのような物語が思い浮かぶのか、率直に言って、驚愕するしかありません。
SF作家の脳みそは何か特殊な機能でも付いているのかと思いたくなるくらいですね。

奔放なイメージを物語に投入してみせるということだけであれば、実はそこまで難しくないかもしれません。
整合性や必然性を一切考えず、異質で異様な要素を無意味に放り込んで物語をカオスに堕としこむのは、その後始末を考えなくていいのであれば、かなり容易なことにも思えます。
ただ、当たり前ですが、それでは物語が物語として成立しなくなってしまいかねません。
それを承知で、敢えてその道を選ぶ実験作も世の中には存在するでしょうが、『零號琴』は、物語であることを放棄せず、計算された奔放さで幻惑的なストーリーを紡ぎだしているところが、そしてそこにわざとらしい計算を感じさせないところが、読んでいて、唸らずにはいられませんでした。

この奔流に振り回される楽しさを存分に味わえるのは、本作が小説という媒体を採っているからでしょう。
これがマンガであったり、実写あるいはアニメであったり、とにかく何らかの形で「映像」を伴う媒体であったならば、半ば強制的に与えられてしまう「画」によって、受け手側の自由な想像を巡らせることが阻害されていただろうと思います。
もちろん、作者側と読者側でのイメージの共有をヴィジュアルによって成すことには意味が無いわけではありません。
ただ、『零號琴』の場合には、それはむしろ逆に働く気がします。
『零號琴』は、独特な言語感覚で綴られる文字を読むことから浮かび上がるイメージを、自分の脳内で自由に膨らませるところに読書の快感があると思える作品です。

ここでは敢えて詳述はしないでおきますが、「プリキュア」の要素を物語に導入したことでも、本作は話題になりました。
その点に関しては賛否両論があるようですね。
否定派の言うことも理解できますし、そういう側面はあるかもしれないと思いますけれども、それでも私は「プリキュア」要素肯定派です。
その要素があるからこそ、徹底して浮世離れした感のある『零號琴』という作品が、どこか私達の実際に暮らしている今のこの世界と接点のあるものだと感じられて、それが物語に、そこで語られてることに、一定のリアリティーや分かりやすさを付与することになっているのではないかと思うからです。

ここまで読んで、「一体どういう作品なんだ?」と興味を持った方、是非、『零號琴』を読んでみて下さい。
中々得られない読書体験がそこにあります。




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