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ダニエル・デフォー 「ペスト」

 2020-08-01
6月末にアルベール・カミュの『ペスト』の感想を書いている時に、同名の小説としてこういうものもあると言及した、ダニエル・デフォーの『ペスト』。
デフォーといってピンと来ない人もいるかもしれませんが、有名どころで言えば『ロビンソン・クルーソー』を書いた、イギリスの作家です。

一六六五年、ロンドンが悪疫(ペスト)に襲われた。逃れえない死の恐怖に翻弄された人々は死臭たちこめる街で、神に祈りを捧げ、生きのびる術を模索した。事実の圧倒的な迫力に作者自身が引きこまれつつ書き上げた本篇の凄まじさは、読む者を慄然とせしめ、最後の淡々とした喜びの描写が深い感動を呼ぶ。極限状況下におかれた人間たちを描き、カミュの『ペスト』よりも現代的と評される傑作。


というのが、こちらの『ペスト』の粗筋。
カミュと違うのは、こちらは実際に1965年にロンドンでペストが大流行した時のことを書いている作品であって、かつ、作者自身がその時期にロンドンに住んでいたというところでしょう。
ただし、デフォーは1960年生まれで、当時はまだ5歳だったわけですが。

5歳児の視点でエピデミックに襲われたロンドンのことを語るというのも、それはそれで悪くない気もしますが、さすがにそれでは突っ込んだことは語れないでしょう。
年齢的に、深い事情的なところまでは知り得ないわけですから。
そこで本作の語り手は、5歳のデフォー本人というわけでは無く、最後にH.F.と署名をしている馬具商人ということになっています。
巻末の訳者解説によると、この1965年のペスト流行当時、ロンドンにはデフォーの叔父である馬具商人のヘンリー・フォーが在住だったということで、本作の想定した語り手は、つまりこの叔父なのだろうなと思われます。
デフォーは叔父から聞き出した当時の話と、公的な記録その他への取材により、1965年当時、ペスト流行下にあるロンドンの姿、そこで何が起きていたのか、ロンドン市民がどのような行動をしていたのか、行政などがどのような対応をしていたのか、ということをルポ的に記しています。
つまり、本作はあくまで小説ではあるのですが、かなりの部分、当時のロンドンの様子をドキュメント的に描いた記録資料という側面も無いわけではないということになるのでしょう。
カミュの『ペスト』とは、どちらが優れているとか劣っているというようなことではありませんけれども、その点で明らかに性格が異なる作品だということができます。

本作を読んで私が感じたのは、カミュに比べると真に迫るような部分が強いということが第一。
ペスト禍の中のロンドンで起きた様々な事例を取材等で収集し、それを書き綴っているようなので、リアリティーが多めになるのかなと思われますが、しかしここで間違えてはいけないのは、そうはいってもデフォーの『ペスト』はあくまでルポ「風」の小説なのであって、ノンフィクションで書かれたルポルタージュでは無い、ということでしょう。

また第二に、敢えてそうしたのではないのかとは思うのですが、活字を小さくして1ページ当たりの文字数を増やしつつも440ページあるボリュームで、しかも改行の頻度が少なくて1段落が長いのにも関わらず、章立てというものを一切行っていないのは、デフォーの『ペスト』の特徴でしょう。
ちなみにカミュの方は、正式に「章」として扱ってはいなかったですけれども、それでも大枠でのナンバリングをして、実質全5章という構造にしていました。
それが無いので、デフォーの『ペスト』には、だらだらと書き綴られ続けているという印象が拭えないのは否定できません。
カミュのように、特定の主人公がいて、一応のストーリーラインがあるというものでないのも、そう感じる原因の1つでしょう。

第三に、同じ内容の話題が幾度も繰り返される傾向があったように思えたということがあります。
エピデミックのこの時期にロンドンの〇〇という地区ではこういうことがあった、また別の時期に別の地区ではこういうことがあった、というように書いていけば中身が似たようなものも出てくるのは分かりますが、それにしてもあちこちにそれがあるようで、そこを整理すればページ数も幾らか減って作品としてはすっきりしたのかもしれません。
とはいえ、それ等がすべてデフォーとしては書き留めておきたい事だったのかもしれず、どちらが作品にとって良い選択と言えるのかは、私レベルでは判断のできかねるところでもあるのですが。

両作品の共通点として、訳文の読みにくさは、デフォーの『ペスト』もカミュと同じでした。
あるいは、「文学かくあるべし」ということなのでしょうか。
デフォーの『ペスト』の初版は1973年、カミュのペストの初版は1969年なので、時代性もあるのかもしれませんし、それだけでもないのかもしれません。
若い読者を新たにつかんでいこうと出版社が思うのであればこれはマイナス要素になるかなと思いますが、だからといって、もっと砕けた感じの文体の新訳を安易に行えばいいというものでもないでしょうから……難しいですね。

もともとの原文の格式を訳文でも再現すべきというのは原則的なことですが、読み継がれていくべき作品、後世にも伝えるべき作品を生き延びさせるには、ある程度の妥協も必要になるということもあるかもしれませんから。



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